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        恕の人-孔子伝 あらすじ・放送予定の右中で選択 孔子の弟子  
        孔子略年譜 論語web漢文  
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礼の始まり-1-1

 
【現代】アメリカ留学中の梅燕は、孔子についての論文を完成させるために一時帰国する。案内役の端木は「孔子とは知り合いだ」とおどける調子のいい男だった。【過去】春秋時代の魯国。母ひとり子ひとりで育った孔子は、17歳で母を亡くし、母の棺と共に座り込んで道行く人に父の墓の場所を尋ね続ける…。幼い頃から儀式や葬儀に精通していた孔子は、母を父と同じ墓に埋葬することが、親に対する“礼”であると考えていたのだった。

552魯の昌平郷で誕生

550-3歳-父の叔梁死去

543-10歳-子路誕生

 

礼の始まり-1-2  
 
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子路との出会い-1-3

 
腹違いの兄である孟皮の助けを借りて、父と母を同じ墓に埋葬した孔子は、その後葬儀で泣き役をして生計を立てていた。ある日、病床の母のために物乞いをしていた子路という少年と出会った孔子は、礼・楽・射・御・書・数の六芸の大切さを説き、その後師弟関係を結ぶのだった。魯国では、季・孟・叔の三大豪族が権力を握っており、中でも陽虎という冷酷な策略家を抱える季平子の力は絶大であった。孔子は季孫家の馬飼いとして働き始める  
子路との出会い-1-4  
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季孫家の宴-2-1

季孫家の宴-2-2

 
季孫家で盛大な宴が催されることになり、孔家を代々続く名門と自負している孔子は、招待を受けていないにも関わらず、正装して季孫家へと赴く。招かれざる客として陽虎らから虐げられた孔子は、魯の君主をないがしろにしている季孫家の横暴に疑問を呈し、「分を越える行いは大罪である」と弁舌を振るうのだった。その夜、孔子の正々堂々とした振る舞いに感心した孟家の孟僖子がやって来て、ふたりは夜を徹して語り合うのだった。  
 
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幵官氏と結婚-2-3

幵官氏と結婚-2-4

 

かつて大宗伯として祭祀や典礼を取り仕切っていたという老人と出会った孔子は、老人から多くを学び、書物や礼器を譲り受ける。季孫家に仕えることに抵抗感を示していた孔子だが、六芸の“数”を活かすことができる軍曹管理という役職に就くことを決意。その有能ぶりから幵官管事という役人に目をかけられ、幵官管事の娘である幵官氏と結婚。やがて第一子が誕生し、魯公より祝いの品として鯉が贈られてきたことから、孔鯉と名付けた。

534-19歳-宗の幵官氏と結婚

533-20歳-長男、孔鯉誕生

529-24歳-母の顔氏が死去(古伝)

525-28歳-魯にて古代の官制を学ぶ、この年までに仕官して委吏、乗田となる

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陽虎との対立-3-1

陽虎との対立-3-2

 
宮廷楽師の師襄子が奏でる琴の音色に魅了された孔子は、六芸の“楽”を極めるために弟子入りを志願するが、季孫家に仕えていることが理由で断られてしまう。魯の大司空、孟僖子に「孔子に従い、礼を学ぶように」と遺言された息子の仲孫無忌と仲孫閲は、孔子から“孝”についての講釈を受け、いたく感動する。その後、税の徴収や個人への貸し出し業務を行う役職に就いた孔子は、不正な制度を見直すが、陽虎の反対に遭うのだった。

523-30歳-冉求(子有)、誕生

522-31歳-顔回(子淵)、誕生

521-32歳-端木賜(子貢)、誕生

 
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老子の教え-3-3

老子の教え-3-4

 
陽虎から呼び出された孔子は、ふたりで手を組んで天下を取ることを提案されるが即座に断り、陽虎を怒らせる。陽虎の脅しに腹を立てた孔子は自ら職を辞し、師襄子に弟子入りを果たすのだった。当時、周の国には偉大な思想家である老子がいた。仲孫無忌と仲孫閲に誘われて周へと赴いた孔子は老子と会い、互いに問答する。政治に関しては意見を違えることも多かったが、大いなる刺激を受けた孔子は、魯に戻って学校を開くことを決意する
 
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斉の国へ-4-1

斉の国へ-4-2

 
私塾を開いた孔子は、子路や顔路ら長年の弟子をはじめ、仲孫閲や顔回(いしだ壱成)といった若い生徒たちと日々学問に精を出していた。一方、魯王の昭公と季平子の間では闘鶏がきっかけで内戦が勃発。孟家と叔家の助けを借りた季家が勝利し、昭公は逃亡。その後、横暴な季家に対して孟家と叔家が反旗を翻し、魯の国は乱れる…。弟子を連れて斉の国へと向かった孔子は、古い友人である高昭子の紹介を受けて、斉王の景公に謁見する機会を得るのだった。

517-36歳-昭公を追って斉に外遊(魯の三桓氏が昭公を攻め斉に亡命させる)

 

 
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斉での失意-4-3

斉での失意-4-3

 

孔子は斉の宰相、晏嬰と酒を酌み交わす。表向きは友好関係が結ばれたかに見えたが、晏嬰が景公の面前で孔子を批難したことにより、孔子に与えられるはずだった役職は取り下げられる。失意の孔子は、斉の国を去り魯に戻ることを決意する。魯では、国外逃亡した昭公が死去し、弟の定公が即位していた。季孫家でも季恒子が季平子の後を継ぎ世代交代を果たしていた。孔子の元には、衛国の大商人の子である子貢が弟子入りにやってくる

 

516-37歳-斉より魯に帰る
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”恕”の心-5-1

”恕”の心-5-2

 
病に伏せていた季平子が亡くなる。陽虎は新しい主君である季恒子に仕える身でありながら、公山ら季孫家の家臣を抱き込んで実権を握ろうとしていた。陽虎のことをよく知る孔子は、季平子死去の知らせを聞いて魯の行く末を不安に思うのだった…。孔子の弟子となった子貢は非常に弁が立つ聡明な男で、孔子とよく問答をしていた。孔子は子貢に「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」という言葉を伝え、“恕”の心の大切さを説く

510-43歳-公西赤(子華)、誕生

509-44歳-定公即位し魯の空位時代終わる

509-44歳-有若、誕生
508-45歳-卜商(子夏)、誕生
507-46歳-言偃(子游)、誕生
506-45歳-曾参(子與)、誕生

 
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陽虎の反乱-5-3

陽虎の反乱-5-4

 

民心を掴むために孔子の名声を利用しようと企む陽虎は、官職を餌に孔子を釣ろうとするが、孔子は取り合わない。それでも権力を我が物にするために躍起な陽虎は、季孫家の先祖を祀る儀式で季恒子の暗殺を画策。勘付いた季恒子が孟家の孟懿子に助けを求めたことから、孟家と陽虎の間で戦が始まるのだった。

【現代】孔子に関する記事を読んでいた梅燕は、その著者が端木であると気付き、端木を誤解していたのかもしれないと思い始める。

505-48歳-このころ魯の陽虎が孔子を仕官させようとする-魯の陽虎の専制はじまる

504-49歳-子張、誕生

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孔子仕官す-6-1

孔子仕官す-6-2

 
叔家の援軍が孟家に到着すると、陽虎の腹心であるはずの公山が李桓子側に寝返り、陽虎は逃亡する。李孫家の実権をようやく取り戻した李桓子は、反動から暴君と化し、謀反に加担した疑いのある家臣を処刑。李桓子の暴挙を目撃した孟懿子は、三桓の力関係が李孫家に傾くのを恐れ、魯の定公に孔子を推挙する。定公に拝謁した孔子は、魯を再興するためには三桓による政権掌握を打破すべきだと進言し、定公もまたこれに同意するのだった。

502-51歳-このころ魯の公山弗擾そむき、孔子を招く。

三桓氏、陽虎を攻めて追う。

501-52歳-このころ魯に仕官する。陽虎、斉に逃げる。

 
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斉との同盟-6-3

斉との同盟-6-4

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6-3

大司寇の地位に就いた孔子は、定公に斉との同盟を提案する。一方、斉の宰相である晏嬰と大夫のれいしょは、同盟を結ぶと見せかけて定公を人質に捕らえ、魯を攻撃するべきだと景公に進言。景公は会場となる夾谷に兵を潜ませる。同盟を結ぶ式典で軍事競演が始まると、瞬く間に斉は攻撃態勢をとるが、それを制止した孔子は楽隊と合唱隊を入場させ、平和を訴える歌を歌わせる。それに感動した景公は考えを改め、魯との友好を誓うのであった。

 

500-53歳-夾谷の会盟に随行して功績を上げる。 魯と斉と夾谷で会盟。斉の晏嬰、死去。
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三都破壊-7-1

三都破壊-7-2

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7-1

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7-2

夾谷の会盟を成功させたことで魯国での孔子の威信は高まり、機に乗じた孔子は、王室の権威を取り戻すために「三都破壊」の案を定公に進言する。しかし、地位を脅かされることを恐れた季桓子、叔孫らはこれに猛反発し、孔子を疎ましく思い始めるのだった。その頃、斉に囚われていた陽虎は脱走して晋に逃れ、公山は費邑の都宰となって斉やこう邑・成邑と密かに手を結んで魯を倒そうと画策するなど、各地で不穏分子が生まれつつあった…。
498-55歳-三桓の敵対勢力を抑えようとして失敗する
 
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公山の謀反-7-3

公山の謀反-7-4

 
費邑の公山とこうゆうの侯犯が手を組んで謀反を起こすが、李・叔・孟家の大軍勢に敗れ、公山は逃亡する。孔子が進める三都破壊計画の最後は孟家の領地である成邑のはずだったが、公山との戦いにおける成邑都宰の公斂陽の活躍を孟懿子が定公に訴えたことで、その功績による成邑城壁の存続が決定。計画が頓挫した孔子は失意の日々を送ることになる。一方、隣国の斉では、景公が魯の混乱に乗じて孔子を排除しようと、李桓子との接触を図る。
 
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定公の堕落-8-1

定公の堕落-8-2

 
季桓子が連れてきた斉国の美女たちの虜になった定公は、季桓子に城壁の再建を許可。さらに、孔子たちが懸命に準備を調えた郊祭にも主宰者でありながら姿を見せぬほど堕落しきってしまう。それでもなお、孔子は周囲の制止も聞かず、定公に三都破壊の重要性を説こうと躍起になるが、季孫家へ書簡を届けにいった子路が袋詰めで門の外に放置されたり、孔子の家の門が倒されたりと、季孫家、叔孫家の脅しと思われる事件が相次いで起こる。
 
 
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魯国を去る-8-3

魯国を去る-8-4

 

家に火を放たれた孔子は、子貢の説得もあり、ついに魯を去る決心を固める。最後に定公に別れを告げに行くが一目会うことも叶わなかった。妻の幵官氏と息子の孔鯉を残し、弟子たちを連れて魯を後にした孔子は、新天地を求めて旅を続け、子貢の祖国である衛国に辿り着く。さっそく衛の役人がやってきて、衛公が孔子を登用する意向だと言う。しかし、宮廷内では高齢な衛公の陰で太子派と夫人派の間で激しい勢力争いが起こっていた。

 

497-56歳-魯を去って外遊、衛に行く。この後、曹・宋・鄭・陳・衛・陳・蔡・楚・衛を遊歴すること十四年。衛と陳に長く止まった。
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死刑の危機-9-1

死刑の危機-9-2

 
孔子はついに衛の霊公に謁見が許されるが、霊公に礼を重んじる心はなく、実権も失っていることがわかる。その後、孔子は太子の腹心である王公叔から太子陣営に付くようにと圧力をかけられ、それを断ると、滞在先に見張りの兵をつけられて軟禁状態となってしまう。弟子たちと脱出した孔子だが、途中で兵に捕らえられ、死刑に処されることになる。顔回は孔子と共に死刑になる覚悟で牢に入り、子貢は夫人陣営に助けを求めに行く…。
496-57歳-衛内乱。太子、宋へ逃げる。
 
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南子夫人からの手紙-9-3

南子夫人からの手紙-9-4

 
死刑執行を待ちながら、顔回が柱に孔子の言葉を刻み始めると、孔子は「私が死んでも私の言葉は生き続ける」と喜ぶ。死刑が今にも執行されようとした時、南子夫人からの手紙が届き、孔子たちは難を逃れる。実は、孔子は陽虎と間違えられて捕らえられていたのだった。孔子たちは命の恩人である衛の南子夫人のもとへ向かおうとするが、公叔戌という男が霊公に対して謀反を起こしたため、蒲邑という辺鄙な村で足止めされてしまう…。
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衛への帰還-10-1

衛への帰還-10-2

 
孔子は衛国に戻ることに成功し、以前とは態度が豹変した霊公の歓迎を受ける。その後、南子に会った孔子は、女性の扱いに慣れていないため、ろくに話もできずに帰宅してしまうが、衛の太子・カイカイは孔子が南子側についたのではないかと疑念を抱くのだった。その頃、陽虎は晋の卿大夫である趙鞅に取り入ろうとしていた…。
【現代】梅燕は、端木が密かにサイドビジネスをしていることを知り、裏の顔を見たような気まずさを感じる。
 
 
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南子の寵愛-10-3

南子の寵愛-10-4

 
南子に気に入られた孔子は毎日のように宮中に呼び出されるが、遊びに付き合わされるばかり。弟子たちも、孔子が南子の色香に惑わされているのではないかと心配する。その南子は霊公の目を盗んで、将軍の弥子暇や、故郷から訪ねてきた幼馴染みの元恋人、宋朝と密会していた。子貢は、いつになったら霊公は孔子に要職を与えるつもりなのかと宦官の雍渠に探りを入れるが、霊公が南子の機嫌を取るために孔子を厚遇しているだけだと知る。
 
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蒯聵カイガイの出奔-11-1

蒯聵カイガイの出奔-11-2

 
孔子と南子の関係を邪推する者も現れ始めたことで、ついに孔子は弟子たちと共に衛を出て宋へ向かう決意を固める。太子のカイカイは、南子暗殺を企み、腹心の戯陽速を差し向けるが、南子の寝室には密会中の宋朝がいたため暗殺は失敗に終わる。罪に問われることを恐れたカイカイは衛を出奔。宋を経て晋へ入ったところで陽虎の手に落ちてしまう。カイカイという衛攻略の切り札を陽虎から献上された趙鞅は、陽虎に左司馬の地位を授けるのだった。

 
 
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鄭の疫病-11-3

鄭の疫病-11-4

 
母を見舞うために魯に戻っていた冉求は、幵官氏から靴や食べ物を預かってくる。冉求から妻子の無事を知らされた孔子は安堵するが、魯の定公が死去したとの知らせには大いに落胆するのだった。定公を弔う祭祀を行った孔子は、宋国を牛耳る司馬カンタイに他国の君主を弔った罪を問われ、命を狙われる羽目に陥る。司馬カンタイの弟で、孔子に弟子入りしていた司馬牛は、なんとか孔子たちを鄭の国まで逃すが、鄭では疫病が蔓延していた…。
 
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子路の失踪-12-1

子路の失踪-12-2

 
疫病にかかって危篤状態だった司馬牛が回復の兆しを見せると、今度は司馬牛のために琴を弾いていた孔子が病に倒れる。意識不明となり、医者からも見放されてしまった孔子の身を案じて、子路は仲間たちの反対を押し切って、本来は諸侯にしか許されぬはずの葬礼や祈祷を強行する。その甲斐もあってか、孔子は死の淵から生還を果たすが、分不相応な儀式を行った子路は叱責される。深く傷ついた子路は夜のうちに姿を消してしまう。
 
 
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陳国へ-12-3

陳国へ-12-4

 
衛の霊公が逝去し、南子夫人は太子カイカイの幼い息子を即位させようとする。晋で趙鞅に仕える陽虎は、カイカイを連れて弔問に訪れるふりをして衛に奇襲をかけようとして失敗。しかし、その帰途で中牟の城を攻め落とすことに成功する。魯出身者の有用性に気付いた趙鞅は、陽虎と同じ魯出身である孔子を登用しようと考える。孔子もその要請を一度は受け入れるが、陽虎に惨殺された人々の死体を目にし、行き先を陳の国へと変えるのだった。
 
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湣公ビンコウと紀弦-13-1

湣公ビンコウと紀弦-13-2

  孔子は陳国への道中で、かつて宋の少司空を務めていたという老人と出会う。司馬桓タイに追われた身同士であることから老人と意気投合した孔子は、老人の孫の子元と子貞を弟子にする。陳国に辿り着いた孔子は、さっそくビン公から意見を求められ、見事な返答でビン公を喜ばせる。しかし、太史の紀弦は、「孔子は行く先々で災いをもたらしている」とビン公に進言するのだった。その頃、晋では陽虎が衛国太子カイカイを懐柔しようとしていた…。  
 
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呉兵の襲撃-13-3

呉兵の襲撃-13-4

  魯から戻ってきた冉求は、代替わりした李家の若当主から補佐を頼まれたと語る。孔子は魯の政治が良くなるならばと快く冉求を送り出す。孔子自身は宮廷からの呼び出しを待つ日々を送っていたが、呉と楚の間で戦争が始まり、巻き込まれた陳も争乱状態となる。孔子たちは戦場から遠ざかるように流浪の旅に出るが、呉の部隊に襲撃され、食糧を強奪される。その頃魯では、孔子の身を案じ続けた妻の幵官氏が心労で倒れてしまっていた。 ?494-59歳-魯の哀公即位
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楚王からの知らせ-14-1

楚王からの知らせ-14-2

  旅を続ける孔子たちのもとに、楚王から孔子を召し抱えたいとの知らせが届く。喜んだ一行は、楚王が戦のために駐屯している城父へと出立する。しかし、陳の太史・紀弦が蔡の司徒・杜能を訪ね、両国の内情に詳しい孔子が楚に仕官することへの危機感から、策略を持ちかけていた。紀弦と杜能が放った刺客に襲われた孔子たちは、山の上へと追い込まれ、飢えと寒さに苦しむ。失意の底にある孔子を顔回が涙ながらに励ますのだった…。  
 
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葉公のもとへ-14-3

葉公のもとへ-14-4

  山に追い込まれた孔子は、楚王のもとに子貢を送り、救出隊の出動を願い出る。無事に救出された孔子たちは、戦が激化している城父には向かわず、地方長官・葉公のもとに身を寄せることになる。葉公は、呉との戦で軍事物資が不足していることを打ち明け、物資調達のために子貢を使わせてほしいと孔子に頼むのだった。【現代】梅燕は、端木が顔に傷を負っているのを見て、端木が陰で行っているビジネスについてますます不信感を募らせる。  
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楚王の帰還-15-1

楚王の帰還-15-2

 

戦場に出て勲功を上げる夢を捨てられない子路だったが、葉公に諭され、孔子の側に仕え続ける決心を固める。その頃晋では、衛国太子・カイカイを頼って衛から渾良夫が転がり込んできていた。陽虎は渾良夫をすぐに衛に送り返し、密偵として利用することをカイカイに命じる。呉との戦いが激化し、孔子たちも子貢を先頭に兵糧運びなどを手伝うが、戦況は思わしくなく、楚王は撤退を決意。楚王が都に戻ってくると聞いた孔子は出迎えに走るが…。

 
 
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弟子の旅立ち-15-3

弟子の旅立ち-15-4

 

一度は故郷の魯に戻ろうとした孔子たちだが、目的地を衛に変える。衛ではカイカイの息子である出公が即位していたが、実権を握っていたのはカイカイの伯父であるコウカイだった。コウカイは、出公即位の正当性を孔子に認めさせようとするが、孔子は固く断る。交渉は決裂したが、孔子が子路を推挙し、コウカイはまた子路の勇猛さを認めたため、子路は衛の重要な防衛拠点である蒲邑の宰に任命される。子路は旅立つ前、孔子に宰としての心得を学ぶのだった。

 
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幵官ケンカン氏の死-16-1

幵官ケンカン氏の死-16-2

 

衛で暮らしながら故郷の魯に思いを馳せる孔子たちのもとに、突然孔鯉がやって来る。孔鯉は、母であり、孔子の妻である幵官氏が亡くなったことを報告に来たのだった。晋の陽虎は、衛に密偵として送り込んだ渾良夫の消息を探るために自ら衛へと赴くが、蒲邑で子路に遭遇。陽虎は逃走したが、捕虜の自供によって陰謀は子路や孔カイの知るところとなる。魯では、斉との戦争に備え、孔子の弟子である冉求が様々な戦略を練っていた…。

485-68歳-妻の幵官氏が死去

 

 
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故郷へ-16-3

故郷へ-16-4

  冉求が軍事を孔子から学んだと聞いた季康子は、孔子を軍事顧問として魯に呼び戻すことを決意し、君主である哀公の承諾も得る。孔子は弟子を連れ、ついに14年ぶりに魯へと戻り、故郷を守っていた弟子たちと感激の再会を果たす。しかし、勇ましい軍略家を想像していた季康子は年老いた孔子に失望するのだった…。
【現代】梅燕は、端木が貧しい山村のために慈善事業をしていたと知る。彼が主宰する団体の名は「農村孔子基金会」だった。

484-69歳-衛から魯に帰る

長男の孔鯉が50歳で死去

孫の子思が誕生

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後継者-17-1

後継者-17-2

  孔鯉が病気で急逝し、孔子は悲しみに暮れる。しかし同じ年に孔鯉の息子であり、後に儒家思想の重要な伝承者となる孔キュウが誕生し、孔子は失意のうちにも喜びを得るのだった。その後孔子は、季康子が強行した増税や出兵を止めることができなかった冉求を叱責。魯でも仁政を実現できそうにないと悟った孔子は自らの理想を『春秋』にしたため始める。顔回はそれを竹簡に記し、その上に漆を塗って後世に残すことを考えつき、孔子を喜ばせる。  
 
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弟子たちの死-17-3

弟子たちの死-17-4

  清貧と病弱の中で長年に渡って孔子に仕えた顔回が病死。最愛の弟子に先立たれた孔子は「天が私を滅ぼす」と嘆き、著作への情熱も失ってしまう。衛では、カイカイと陽虎が、密偵として送り込んでいた渾良夫の協力でついに行動を起こし、孔カイに夜襲をかける。陽虎たちは、孔カイに現君主を廃してカイカイを王位に就けるという盟約を強要する。その知らせを受けた子路は孔カイを救うために駆けつけ、カイカイたちの手の者と雄々しく渡り合うが…。

482-71歳-顔回41歳で死去

481-72歳-宰我、斉で戦死
斉の陳桓、その君を殺す。

480-73歳-子路、衛の内乱で戦死

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孔子の夢-18-1

孔子の夢-18-2

  顔回に続いて子路も失った孔子は急激に老い、夢うつつで弟子たちを偲ぶ日々を過ごす。やがて病に冒された孔子はある日、かつて講義した場所、宴に出席しようとして陽虎に笑い者にされた季孫邸、定公と問答した魯宮など、思い出の地をさまよい歩く。山道で子貢に発見された孔子は、自分が見た夢の光景を語り…。
【現代】端木が取り組んできた山村の学校が完成。開校式が行われる中、梅燕は端木に変更した論文のタイトルを伝えるのだった。
479-74歳-孔子死去
孔子の教え  
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        cast 人物相関図  
 
孔子の教え
2-1
       
    孔子の教え
2-2
       
    孔子の教え
2-3
       
    孔子の教え
2-4
       
    孔子の教え
2-5
       
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3-1
       
    孔子の教え
7-1